ナカ故事

生きる教訓...

令和二年度 我孫子市成人式 第一部 謝辞

 謝辞

 まず初めに、短縮した形式でありながらも、こうして成人式が開催できていることに、我孫子市の皆さま、運営委員の皆さまへの感謝を申し上げたいと思います。(わたしをはじめ、我孫子を離れた者も多い中で、我孫子で少年期、青年期を過ごした皆が一堂に会することは、おそらくこの時を除いて再びないでしょう。)本当にありがとうございました。

 近年の成人式の謝辞や誓いでは、グローバル化だとか、AIを引き合いに出して、恰もターミネーターのような世界でいかに生き抜くかを語る演説も多いようですが、今年は、もう少し身近なところから考えていきましょう。

 新成人となった我々が常に念頭に置いていかなければならないことは、「自分の環境が普通ではない」ということです。何もこれは、自分がこうして生きてこられたのは、全て家族や先生のおかげなのだから、常にその人たちへの感謝の気持ちを持って生きなさい、という陳腐なお題目を唱えたいわけではなくて、様々なステータスを持つ人間が集うこのホール内で、自分を相対化しろということを言いたいのです。つまり、自分は絶対的な普通ではないことを自覚するのです。

 これを言い換えれば、全員がそれぞれ特殊な人間ということになります。みんな違ってみんないい。金子みすゞの言葉が思い出されますが、彼女のようにただ肯定するだけでは、良い人止まりで、立派な人とまではいかないでしょう。

 私たちは肯定するだけでなくて、理解しなければならないのです。なぜ私と他人は違うのか、何が私と他人を他の人間たらしめているのか、それを考えることで、この混沌とした世の中への理解、他者に対する寛容につながり、多くの蟠りを解消できるのではないでしょうか。

 自分の他者と異なることをしっかりと自認すると、次いで自分が大きな社会の一つの小さな駒に過ぎないことが実感されると思います。でも、それでいいのです。私たちは一つ一つの小さな駒ながら、駒同士でネットワークを張り巡らせて社会という生き物を形成しているからです。(逆に言えば、だからこそ、私たちは他者を理解しなければならないのです。だから、この様々なステータスを持つ友人たちと出会えた我孫子に住むことができたことについて、私たちは家族に感謝の言葉を述べなければなりません。ありがとう。)

 しかし、ネットワークを張り巡らせすぎると、その集団、組織内から外が見えなくなってしまいます。また、このネットワークは自省機能を持ち合わせにくいです。例えば、「今となってはいい思い出」と小中学校の時のパワハラ・セクハラを正当化する風潮がいい例です。部活動での頭髪の強制や無意味な規律の押し付け(人権侵害)が今でもこの世の中に残っていることが2021年を生きる私としては信じられません。かつて管理教育の牙城と呼ばれた我孫子市だからこそ、率先してできる行動が残っていると思います。これからの我孫子に期待です。

 二〇二一年一月十日 中小路一真

 

※()部分は原稿にはあったがそこまで重要な部分でないので、限られた時間だということもあり当日は省略した。