ナカ故事

生きる教訓...

地学受験で京大に受かった話 中編

 理科が始まって一時間経ち、続々と退出していく受験者たち。そのほとんどがまだ二科目の問題が解けないからだろう。私も物理はほとんど問題を解いたことがなかったから、駿台全国模試のような難しい問題はきっと解けるはずがない。化学をやっとのことで解き終えたこのタイミングで退出するかと考えた。しかし、多くの受験者と異なり、私だけは退出以外にもう一つの選択肢を持っていた。

 地学を解く。

 3月の頭まで死ぬ気で勉強していた地学も、新学期が始まって、この第一回駿台全国模試があった6月まで一切触ることはなかった。しかし、2年の冬にあれだけ勉強した地学の知識が簡単に抜けているはずもなく、パラパラと問題を捲ってみると、見たことのある単語が目に飛び込んでいき、それに付随した知識が頭の中で広がっていく。解けるかもしれない。私は地学の問題が始まるページを開いて、勝手に閉じないように強く机に押し付けた。

 100点満点で化学は39点、地学は18点であった。特に悔しさはなかった。

 駿台全国模試の地学はしっかりと教科書の内容を理解していることが前提で、かなり本質的、また発展的な内容を出題するため、解けないのは当たり前であった。とりあえず解説を読み始めると、教科書の流し読みでは拾いきれなかった幾多の知識がそこに転がっているではないか。私はそれを夢中で読んだ。読み進める中である種の快楽を感じた。化学で新しいことを知るときにはきっと得られないこの感覚。化学は嫌いではないが、あの膨大な暗記量と、有機化学の基礎からついていけていない今までのツケを考えるとゾッとした。自分は地学をやるべきなのかもしれない。それから少したって、私は地学の教科書(啓林館)を発注しに書店へ向かった。

 その頃はすでに京大を受けようと決めていたから、照準を8月の京大実戦模試に合わせて勉強を進めた。といっても数IIIが終わっていなかったので夏休みが入るまではほぼ数学に費やし、また物理もノータッチだったので、京大実戦模試までにできた地学の勉強は教科書を一回読むことだけだった。そのような状況で受けた京大実戦模試の結果が以下のとおりである。

f:id:Nakako-1853:20190929150647j:plain

物理と地学、ほぼ同じ勉強時間でこの差である。

 確かこの模試では京大理学部D判定であったが、地学は京大入試と戦えるだけの力を持っていると確認できたため、特に志望校を変えようなどとは考えず、むしろ自信になった。ほぼ知識のない状態から化学で京大入試6割を取るまでにどれくらいの時間及び努力が必要になるだろうか。この時私は確信した。大学入試において、地学を選択することは、理科二科目のうちの一方の負担を大幅に削減する最強の秘密兵器であると。ただし、その秘密兵器は諸刃の剣になりうるし、そもそも通用しないこともあるが・・・。

 ここまでで登場した地学関連のものは、数研の一般向け教科書、センター地学、啓林館の教科書のみであったが、実はこの夏にもう一つの強力なアイテムが加わっている。駿台夏期講習テキスト「理系の地学」である。少ないとは言われても、毎年一定数は地学受験者がいるらしく、東京のみであるようだが、駿台河合塾はいずれも講習で地学の講座を開講している。地学の最大の弱点は問題集がほぼ存在しないことであり、講習のテキストには様々な大学の地学の過去問が載っているため、私もいずれかを受講しようと考えた。ネットで調べてみると、実際に受講した人の感想は駿台の理系の地学の方が圧倒的に多く、距離的にも御茶ノ水のほうがやや近かったので駿台の方を受講した。

 ちなみに授業料は河合塾が17000円で駿台は20000円だ。

 授業のほうは基本的に例題を解きながらの教科書の内容の再確認であった。そもそも、地学の問題が、他教科のようにかなり発展的な内容になることはほぼない。教科書をしっかりと読み込むことが大事なのである。例えば、気象や海洋の範囲は、本来流体力学等難しい計算を用いて研究していくものだが、教科書にはほぼ数式は登場しない。高校地学は正直言って簡単であるが、大学のレベルになるとかなり難しくなりすぎるから、大学入試問題に難問は出しにくくなる。だから、教科書の隅々まで正確に理解、暗記することが問われるのだ。と同じようなことを駿台の先生も言っていたような気がする。ちなみにこの駿台の地学のK先生はかなり面白い。独特の雰囲気があり、毎回の授業の最初に話す雑談が特に面白い。しかし採点はけちょんけちょんに厳しく、授業ではその愚痴をよく話される。最近の生徒の記述問題の酷さを嘆いておられた。

 私の手元には、理系の地学と題されたテキストのみではなく、地学図表集という駿台オリジナルの資料集も加わっていた。この資料集は白黒だが、様々な参考資料から図を引用しており、かなり詳しい記述も書いてある。頻出の記述問題で、この資料集の記述をそのまま書けば満点をもらえるような問題もあり、手に入れて損はないものであった。12月には冬季の「理系の地学」も受講したため、最終的にテキスト2冊、資料集1冊を駿台から入手して活用した。現在、テキスト2冊は次世代の地学受験者に譲渡したが、資料集は手放すのが惜しく、京都まで持ってきて、しばしば読む。某フリマサイトで理系の地学と検索すると、これらのテキストがかなり高値で取引されている。確かに2万払うより5千円少々払って数年前のテキストを手に入れたほうがいいとは思うが、テキストには前年度と前々年度の入試問題(良問)が載せられていて、毎年問題の入れ替えがあるし、地学図表集も毎年編集されているようなので、どうせならしっかりお金を払って授業も受けたほうが良いのではと思う。

 夏休みが終わった後は駿台のテキストの問題を時々解きながら、主に物理と数学の勉強をしていた。地学という教科はそもそも面白いのであまり勉強しなくても知識の抜けが少ないと個人的に思う。

 化学とさよならしたはずの私であったが、年に3回だけ再会することがあった。それはテストの前日である。一応授業は受けていたが、周りがフィッシャー投影式やらハース投影式を書く中、私は島弧-海溝系の断面図を書いていたから、当然まともに解けるわけなかったが、やはり地球システムとはうまくできているようで、地学を選択するとそれを補うように化学の成績は保障してもらえるようだ。

 

次回、番外編「気象大受験」&完結編「京大入試地学9割」(完結編は正直書くことない) 

 

 

 

 

地学受験で京大に受かった話 前編

Question

高校二年生の理系です。理科の選択科目で悩んでいます。私の高校の理系コースでは、一年で化学基礎と生物基礎を履修し、二年で化学と物理基礎を履修します。三年生では物理と生物のいずれかを選択しなければなりません。今現在、物理基礎は何とかついていけている状況で、物理となると難しくて挫折しないか心配です。また、暗記が苦手なので、生物を選択したとしても不安が残ります。国公立大学の理系を志望していて、高校は地元では一番の高校に通っています。成績は中の上くらいです。化学以外の残りの二科目、どちらも不安な要素が残っていて、決めきれません。どうしたらよいかアドバイスよろしくお願いします。

Best Answer

地学を選択しましょう(*^^*)

 

 私の大学受験時の選択科目は「物理・地学」でした。地学は参考書・問題集が少ないと言われ敬遠されていますが、誰だって興味と5千円さえあれば地学で受験することは難しくありません。入り口は狭そうに見える地学ですが、一度勉強してしまえば、化学や物理よりも圧倒的に点が取りやすく、ほかの受験生に大きく差をつけることができる科目になります。私は好きが高じて地学を選択してしまい、いばらの道を歩くことを覚悟していたのですが、結果として、地学を選択したおかげで相当、楽をすることができました。今回は、私がどうして地学を選択して受験するに至ったのかについて書きます。

ターニングポイント1:生物が好きじゃなかったので、地学基礎を選択

 高校一年、まだ理系か文系かすらはっきりしていなかったころ、当時の三年生に、地学選択で東大を目指されていた、学内ではかなり有名な方がいました。私はその時初めて、世の中には地学を選択して大学受験する人がいて、かなり希少であることを知りました。その方との面識はなかったですが、同じ高校の先輩で、実際に地学で受験された方がいたことを知っていたのは、のちの私の選択の大きな後押しになったと思います。

 高校二年のコース選択では、文理コースに進み、選択科目(日本史か化学)で化学を選択しました。二年に進級した時点では、自分はおそらく物理と化学で受験をするのだろうなと思っていました。化学の問題集も買って、理論化学の分野はかなり真面目に勉強していました。私の高校には、理コースというのもあり、私の所属していた文理コースとの違いは、文理コースの地学基礎分の二単位が生物になっているところでした。生物にあまり面白さを感じられていなかった私は、多くの理系志望が、どうせ文転するくせに、「高2のうちに数IIIまで進められる」という、定期テストの負担がふえるだけで、ほぼメリットのない謎のカリキュラムに魅力を感じたか、理系アピールがしたいがために理コースを選択するのを横目に、前々から興味のあった地学基礎を学べる文理コースを選択したのでした。

 地学基礎の授業は実に面白かったです。学んだことが身近な現象につながってくるのが、とても良かった。その点で、地学は手に触れられる学問と言えるでしょう。

 授業についていけるように、それまであまりした記憶のない予習復習をしていました。学校から配られたセミナー地学基礎を授業と並行して解き進めていました。これは私見ですが、地学の教員はユニークな方が多いです。マイナーな地学という科目を選択するだけの覚悟がある人はなにか人を惹きつける魅力があるのかもしれません(私含め)。

ターニングポイント2:目指せ地学オリンピック

 地学オリンピックの存在を知ったのはいつか、明確な記憶はないですが、本選出場を目指して具体的に行動し始めたのは高2の10月ころだと思います。高校3年次の選択科目の説明の紙の地学の欄に何故か「地学オリンピック本選に出場した先輩もいます」(高3でしか地学を選択できないが、高3は本選には進めない)と書いてあり、その時すでに地学基礎にメロメロだった私は、自分も行けるかも?ととりあえず予選を受けてみようと思ったのでした。

 自分も行けるかも?と思ったのは、私が自信過剰だったからではありません。ほかの科学オリンピック(物理や化学)などは、高校レベルの知識の高度な応用力が問われるらしいのですが、地学オリンピックは、予選はなんと「地学基礎」の内容のみから出題されるという、マイナー科目らしく受験者を増やすための工夫をしていたのです。(実際はしばしば地学基礎の範囲外の内容も出題されているような気がしますが...)

 地学オリンピック予選を受験すると決めてから、まだ勉強していない範囲の教科書を読みこみ、セミナー地学をすべて解き終わらせました。その次はセンター試験の過去問(地学+地学基礎)を購入し、過去11年分のセンター試験「地学基礎」を解きました。

「簡単すぎる・・・」

 基礎科目ですし難しい問題はなかなか出さないと思いますが、どの問題も教科書を一読すれば容易に答えのわかるものばかりで拍子抜けしました。いよいよ調子に乗ってきた私は地学オリンピックの予選の問題に手を付けることにしました。地学オリンピックとなると、ただの暗記では太刀打ちできないと思っていましたが、難易度はセンターの少し上くらいで、本選出場ラインをぎりぎりかすめる程度の成績は取ることができていました。本選出場が見えてきた私はより一層地学の勉強に励みました。

 そして12月の予選、すごく風が強くて寒かった日、一人千葉大学に赴き予選を受けました。どうやら千葉東高校は集団で受験していたのか、同じような制服の人がたくさんいて、そのほかはとても頭よさそうな感じを出していた眼鏡君が数人いて、なぜかスーツで参戦した私はやや浮いていたように感じました。

 問題の様子も過去問と大して変わらず、試験時間2時間をいっぱいに使って解き切りました。自己採点は470/550で、例年なら余裕で通過のようでしたが、どうやら問題が易化しているのと、強者がたくさんいたようで、度数分布をみる限り、本選出場ラインの全国上位60名に入れているかは微妙でした。だから、自宅に届いた結果を開封し、本選出場の知らせを読んだときは跳んで喜びました。

 その後届いた参加者の名簿を見ると、なんと千葉県からの参加者は私のみでした。どうやら、あの大勢いた千葉東の生徒のうち誰一人として予選を突破することはなかったし、頭よさそうな雰囲気を出して『一人で学べる地学』やら『青木の地学基礎をはじめから丁寧に』を読んでいた眼鏡君たちも、スポーツ刈りのハンド部員の私より点数が低かったようです。

 余談ですが、試験会場で調子に乗っている奴が本物の賢い奴である可能性はかなり低いです。試験会場にいた400人超の中から20人が二次試験に進んだ某大学校の入試で、私が腹痛と戦う中トイレで問題の講評をしていたような人間は大抵二次試験に進みません。二次試験に進んだ私が見た限りいませんでした。センター試験でも、中堅高校の生徒はやけに群がって騒ぐ傾向にあるようです。なにが言いたいかはわかりますよね。

 本選は地学基礎にとどまらず発展した内容の問題が出題されるため、結果発表があった1月から3か月かけて基礎なしの地学を勉強しなければいけなくなりました。したがって、教科書を手に入れようと思って調べたところ、数研出版から一般向けに高校地学の教科書が出版されていました。それを手に入れて一から読み始め、本選の過去問を解きまくりました。ちょうどその時、学校の化学は有機化学の範囲をやっていました。しかし私はその時、朝昼晩地学漬けの生活を送っていたため、テスト前であったのにも関わらず化学を全くと言っていいほどやりませんでした。つまり、私の脳内には一度も有機化学の知識が定着したことがありません。なぜなら、また一から化学をやり直そうと思う前に地学に逃げることを選択したからです。

 本選の内容は悲惨すぎて書くことはありません。二人できた友達の片方とはのちに京大で再会することができました。

 筑波で行われた本選で惨敗した私を待ち受けていたのは、本選期間中に行われた大量の定期テストを1日で終わらせる鬼の所業でした。それを何とか乗り越え、ついに春です。

 3年で私は地学を選択しませんでした。

 

つづく

 

答辞執筆当時の話 後編

 2000字のレポートの書く気は起きないのに、誰が見るかもわからない文章を書きたくなってしまう性分です。

 

 前回長く語った書き出し、川端康成『雪国』のパロディの部分ですが、聴衆に通じるかどうかがとても心配でした。本番はかなりウケていたので、たいていの東葛生は理解できたようです。三年間、自分としては渾身のギャグであったのに、先生にしかウケていないことがしばしばありました。最近は凋落の一途を辿っているといっても、学力上位層に属するであろう東葛生たるもの、文芸や政治にも興味を持ち、それを利用して笑いを取れるぐらいの教養を持ち合わせるべきではないでしょうか?広く浅くでよいですから、世の有名なものについて知識を身につけようとすることが大事だと思います。因みに私は『雪国』を読んだことはありません。

 次の段落、「期待とクリアファイルを胸に抱え」などは見事な表現だと自分でも感心してしまいます。その次の「前衛的すぎる自己紹介」は事実です。嫌な記憶ではありますが、この経験のおかげで、新しい環境での最初の行動は慎重に行うべきだという教訓が得られました。後から考えると恥ずかしい記憶というのは、これからの人生に大きく活かせるものです。

 「あれから三年たち~」からの段落が、この答辞のなかで最も気に入っている部分です。東葛生は勿論全員が分かったでしょう。東葛飾高校が輩出した大先輩、桜田義孝オリンピック・パラリンピック担当大臣(当時)の答弁です。

 

多くのスタッフの協力に基づく答弁書を、間違いのないように読むことが最大の仕事だ

                桜田義孝・オリンピックパラリンピック担当大臣

 

 最も有名な東葛出身者と言えば、桜田義孝サンプラザ中野の名前が挙がると思っていましたが、今回の失言で桜田義孝がOBであることを知ったという人も多いようです。後輩に「誰ですか?それ」と真顔で言われた悲しい記憶がよみがえります。地元の有名な政治家、ましてや自分の高校のOBであるならそれくらい知っておけよと思ってしまうのは傲慢でしょうか。なんだか、最近の若い人は興味のないことについて完全に情報をシャットアウトしてしまうような気がします。今はネットでなんでも調べられますから、情報の真偽は判定するとして、身近に存在するものについて最低限の知識は持ち合わせるべきです。

 答辞は、大抵の場合三年間の思い出を振り返って、あとは適当に各所に感謝を述べてお涙頂戴で終わりです。ああつまらない。思い出を振り返るとなっても、三大祭にばかり集中して、どれも本番までの準備期間で生徒が主体となって活動する東葛生を称賛して時間いっぱい。このような内容でも悪くないとは思いますが、どうも毎年同じ話をしているようで、東葛生らしく「個性」を出せているのか甚だ疑問です。特に高校からの卒業ともなれば、社会へ出ていく第一歩となるわけですから、これからどう生きていくか、という決意を語ったほうがいいと思ったわけです。余談ですが、卒業式で、定番曲である「旅立ちの日に」を歌うのはどうかと思います。突然中学校の陳腐な卒業式のような雰囲気が漂いませんか?たいていの生徒が練習なしに歌えるためにこの曲にしているのかもしれませんが、予餞会で歌っている曲を卒業式に使ってもいいのではと思います。

 次の段落からは、東葛生が「変人」としばしば形容されることから、これからの社会でどう行動していくかについて論じています。しかし、全国的に「変人の集い」と形容される大学に入った今読み返してみると、自ら変人を自称することのダサさを感じてしまい、若干恥ずかしいです。

 山月記のパロディがあるものの、今までと一転して真面目なことを語っているこの部分は、私立武蔵高校の2016年度の卒業式の答辞にインスパイアされて書きました。どう笑いを取るかばかり頭に浮かんで、メインの話が思い浮かばなかったときに、『名門校「武蔵」で教える東大合格より大事なこと』という新書に、とんでもなく面白い答辞が載っていると知り、ジュンク堂に立ち読みしに行きました。その内容は、若いうちにはいくら過激でもいいから自分の思想を持ちなさいということで、見事な演説調で書かれていました。しかし、読み終わって、自分にもこれは書けるかもと思い、三年間ひたすらに思い続けた、「東葛生は同調ばかりして非生産的である」ということを堂々と言おうと思いました。物事を批判する文章を書くのは頗る得意なのでスラスラかけました。

 「文明開化」という言葉や、突如現れるidealという横文字は福沢諭吉が頭にあったからだと思います。明治維新のころの、進んで外国のものを取り入れて日本風にしていくという過程は非常に生産的だと思いませんか?そのような気持ちで日々ありたいものです。

 「賢い変人」となれと書いたのは、東葛生の学力低下を嘆いてのことです。最近の東葛生は、そもそも上を目指す人が少ないと思います。東葛内申点偏重なこともあり、もとの学力が足りない人もいるでしょうが、人間一度は東大に行こうと思うべきです。

 「事実、私は、雪国のパロディで」から始まる一文は当日のアドリブです。

「AIにまけるな」の件は、「最近話題だしとりあえず入れておくか」という浅はかな気持ちでAIについて書いていましたが、あまりうまく書けなかったので、前校長の名前を出せばとりあえずウケるだろうと思って少しだけ書きました。

 エンディングは、冒頭の地下通路を抜ける光景と対照的に、地下通路を戻って、東葛通りを戻る情景を描きたい、と自然な発想から生まれました。「東葛通り」という固有名詞が認知されているのか微妙でしたが、伝わったようです。ここについてはただのダジャレなので詳しく書くことはないです。しかし、三年間通った道を歩いていくという演出は、笑いを取るというより、感動させようと思って書いたこと、そして卒業式の帰り道に、私の答辞を思い出しながら、友人や保護者と、一歩一歩東葛通りを歩いていってほしいなと思って書いたことは記しておきます。

・台湾の高校生の前でWe Are The World

2016年度、台湾の高校生が東葛を訪れ各クラスに分配されて親睦を深めあうイベントがあった。1-G は親睦会の最後に全員でWe Are The Worldを熱唱?した。

・大勢で歌えバンバン

2018年度合唱祭で、有志団体「我孫子少年合唱団」が「楽しい発声のドリル」「歌えバンバン」「ドリフ大爆笑エンディングテーマ」を合唱した。

五・一五事件

私の個人的な経験。

・「いろは」

 現「とらとら」の旧店名、カレーやスパラーを出していた。

・「とらとら」

謎の定食屋。

・「ピグマリオン

地下通路出てすぐ右に見える小学生向けの塾の名前、調べるとギリシャ神話の登場人物の名前が。

・「クラーク」

クラーク国際記念高校から。

・「王道」

現Timesにあったこってりラーメン屋「王道屋」から。

・「音」

王道屋閉店後に開店したラーメン屋から。

・「東葛生に誉あれ」

角にあるこってり系ラーメン屋「誉」から。

 

 これですべての説明は終わりました。お気づきでしょうが、私の答辞は90%がパロディです。卒業式でこのようなテイストでの答辞が今までになかったことと、僕のしゃべり方も相まって、評判はよさそうでしたが、所詮パクリのつなぎ合わせです。それでも、本論の部分(理想的な東葛生)は信念をもって書き上げましたので、私の答辞をただのネタ枠だと捉えられると少々悲しいです。

 他二人の立派な答辞に比べれば、私のは薄っぺらいものだったと思います。しかし、こんな答辞は東葛で三年間を過ごさなければ書けなかったと思います。そのような時間を共に過ごせる仲間は大事です。きっと桜田大臣も、東葛で立派な仲間を持てたから、多くのスタッフへの感謝の気持ちを持ちながら、答弁書を読むことができたのでしょう。

おわり

答辞執筆当時の話 前編

 高校の卒業式から5か月ほど経つそうですが、距離もかなり離れてしまったためか、東葛のことは遠い記憶のように思え、余計に懐かしく感じます。

 自分で言うのもなんですが、三年次の私は実に活力にあふれていました。合唱祭の有志団体をほぼ一人で運営し(かなり計画は難航し、二個目の計画は頓挫しましたが)、クラス内で体育祭を企画したり、文化祭では訳のわからない発表をたくさんしました。

 私も、私のことを知っている人も強く印象に残っているのは、卒業式の答辞でしょうか。特に全校で目立ったことはやってこなかったので、高校三年間で三大祭委員長をやられた方ほどの知名度はなかったはずですが、私含め立候補者が3人しかいなかったので、おまけでやらせていただきました。

 東葛で答辞を読みたいと思ったのは中学3年の冬です。かつて我孫子中学校の生徒会長を務めていた私は、卒業式で答辞を読むことになりました。ただの公立中学校ですから、国語の先生の大まかな指示や、過去の答辞を参考にしながら、色味のない使い古された表現および構成で書き上げるものでした。記憶が曖昧ですが、答辞を書く時点で東葛に合格していた私は、興味本位で「東葛 答辞」と検索してみました。今では、このブログの記事が一番上に来るようですが、その頃は「ひのきみ通信」という千葉県教職員組合の機関紙のようなものの、各校の卒業式(90年代)をまとめた記事が出てきました。このころはぎりぎり学生運動のにおいが感じられていたようで、例えば小金高校は日の丸を掲揚しようとする校長と生徒が対立して、生徒司会の卒業式を行った。と書いてあります。東葛は大抵のことを小金より先にやっていますから、東葛も生徒主体で卒業式を行っていたのでしょうか?今の2部にその痕跡がたどれるかもしれません。

 その「ひのきみ通信」の記事の中に、東葛(98年)の答辞が載っていました。

Spring has come! ばねが来た。いいえ、そうではありません。春が、やって来たのです。

 その完璧な書き出しののち、続く言葉の数々のなんと鮮やかであること。私は、いくつものユーモアを交えながら、こんなにも面白いだけに留まらない文章が書けることに驚嘆しました。一度読んであまりの衝撃に内容を忘れ、二度読んで胸の高鳴りを感じ、三度読んで自分にはこんな文章は書けないと落胆しました。しかし、この答辞は一生手元に置いておきたいと思って、いつ消えるかわからない、このネット上の文章を原稿用紙に書き写したのを覚えています。最後にページのリンクを載せておきます。

 結局、中学の答辞は、つまらないの一言に尽きる、普通の答辞に終わりました。私は普通が大嫌いです。

 知る人ぞ知ることですが、私は高校一年の時、生徒会選挙に出馬しました。いろいろ理由はあったのですが、生徒会に入ったほうが答辞が読みやすいと思ったのも一つの理由です。

 なんやかんやあって生徒会役員にはなれませんでした。その後はごく普通の楽しい東葛LIFEを送って高3の冬に至ります。受験がそろりそろりと近づいていた1月、もうすぐ卒業式であることに気づいた私は、偉大な先輩が遺した、あの衝撃的な書き出しを思い出しました。「印象的な冒頭を作らなければならない」という至上命令を抱えて1週間ほど過ごした時でしょうか、床に就いて目をつぶりながら冒頭部分を考えていると、新品のスーツを着て国道6号線の下の地下通路を抜けた光景と、国境の長いトンネルを抜けた光景が、一致したのです。

エウレカ

 とは叫んでいませんが、目を見開き、暗闇の中自身の才能に畏怖して大きく笑いました。この答辞を読みたい、とまだ中身はどうするかもきまっていないのに強く思いました。そうして、答辞の立候補を受け付けていると聞いた私は、即座に卒業式対策委員長のもとへ向かったのでありました。(つづく)

 

 本当はこの記事で、例の答辞の随所にちりばめられた小ネタを全部拾う、という読者の小ネタを見つける楽しみを奪うネタバレを行おうと思ったのですが、冒頭部分については思い入れが深かったので、ここまで長くなってしまいました。後編に続きます。

・なぜ今更書くのか?

 いまだに答辞のネタを引きずっているのはダサいですか?僕、自分の書いた文章読むの大好きなので、何回も読むのですが、今回の答辞は読むたびにアドレナリンがドバドバなるくらいの力作でした。しかし当日の反応を見ても(僕が早口だったのはありますが)、すべてのことを拾えている人は少なかったようで、変に滑ったとも思われるのは嫌なので、解説を書こうと思いました。

 卒業式から数日間は1日に何百PVもあって、わくわくしながらアクセス数のページを覗いていましたが、今では月に20PV程度です。ブログの更新をTwitter等で宣伝するつもりはありませんから、こっそりできますし、もう答辞のことなど皆忘れているだろうと思って、久しぶりに答辞の記事を読んだ人が、たまたま見つけたらうれしいと思えるように今から書きます。

 しかし、新生活が始まって書き始めた日記が四日坊主であったように、後編を書かない可能性も存分にあります・・・

 

 

「答辞集 第二部 ひのきみ通信」

http://hinokimitcb.web.fc2.com/html/98/touji2.htm

 ひのきみ通信のトップページを見ると赤地に白い字で「ルール違反だ安倍晋三」と書いてあります。日の丸や君が代について意見のあるような団体のようです。だから卒業式の特集をしたのでしょう。

 ちなみに「三年間で私たちは大きく変わりました。式典の日の丸の位置も三年間で大きく変わりました」という文が、初稿では入っていました。

東葛飾高校平成30年度卒業式答辞①

  国道の下の長いトンネルを抜けると、東葛であった。中学棟の底は元から白かった。駐輪所にチャリが止まった。

  入学当初のまだ東葛に慣れてない日々を思い出せば、期待とクリアファイルを胸に抱え、通用門を通ったあの光景が思い浮かぶ---と思いきや、実際に思い起こされるのは、入学してまだ数日の頃、前衛的すぎる自己紹介をし、教室に異様な雰囲気の立ち込めたあの時の、クラスメイトの優しくも冷ややかな目線であります。

  あれから約三年経ち、答辞の一番目という大役を任命されました。これも三年間お世話になった、友人、教員の皆様方のおかげであり、今の私にとっては、多くの人々の協力に基づく答辞を、間違いのないように読むことが最大の仕事であります。


  さて、次は私の東葛での三年間といきたいところではありますが、思えば、それはカープが三連覇をする間に終わってしまい、思い出したくないことも多いので振り返りません。


  私たちは、在校生含め、一応、厳しい受験競争を経て、この東葛での自由を勝ち取った。と言えなくもないわけでありますが、全員が恐らく進むであろう次なるステージの大学、そしてその先の社会で、我々が今まで通り歩を進めることが出来るか、と考えると、それは微妙なところであります。

  ならば、不本意な人生を送らないために何を心に留めればよいのか。それは「東葛生」になることだと思うのです。

  しかしそれは、例えば、遅延証という無敵のベールを身に纏い、エリーゼを聴きながら悠々と教室まで歩くようなことではなく、ジャージか、私服かとハムレットばりの選択を朝に行うようなことでもありません。

  私の意味したい東葛生とは、カギカッコ付きの東葛生でありまして、即ち、idealな東葛生であります。

  されど、idealな東葛生といっても、「知を求め、美を愛し、創造性、感受性に優れ、一度諧謔を捻れば噺家のよう、また、博学才穎、天宝の末年、若くして虎榜に名を連ね、性、狷介、自ら恃むところすこぶる厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしない」ことを理想的と掲げてしまえば、本当の意味で東葛が動物園になることがついに果たされてしまうでしょう。

  私の考える理想の東葛生とは、全て完璧ということではなく、簡単に言えば、「賢い変人」であります。

  世の中には無批判に人に従うだけで、世界は勝手に進むと考え、協調しかせず、何も生み出さないつまらない人々が沢山います。

  私はその対極として、「変人」という言葉を当てたいと思います。


  普通の東葛生は、思いのほか良い子です。しかし人間、よい子過ぎると何も生み出さなくなってしまいます。それを防ぐためには、やはり、変人的な視点を持つことが必要なのです。

  得体の知れない西洋が入ってきたことによって起こった文明開化を想像してください。

  数多の金銭的、知的投資を受けてきた私たちは、集団の中で適当に協調するだけでなく、一度頭を大きく離れたところにおいて考え、自分の中、または属する集団の中に新しい考えを持ち込み、文明開化を起こさなければならないと思うのです。

  しかし、ただの変人が文明開化を起こそうとするのはただの迷惑です。まわりに有意義な文明開化を起こすには、賢くなければならないのはもっともです。

  さらに、賢いということは、何か新しいことをすることへの自信となります。

  事実、私は、雪国のパロディで通学風景を再現するなんて自分賢いな!と思うことでこうして堂々と答辞をよめているのであります。


  また、最近はAIによって社会がどう変わるかに注目が集まっています。ここで思い出されるのが、大森前校長の最終講義「AIに負けるな」です。師は、AIというシン・ゴジラに立ち向かえるのは、それこそ東葛生であるということを見抜き、伝えてくれたのだと思います。

  以上をもって言いたいことは、これからの新時代で東葛生となり続けたものが最後に笑うのであり、広い世界で、自由、即ち自主・自律を手にするのです。


  続いて、エンディングに参りたいと思います。

  最初に、自転車通学の皆様に深くおわびを申し上げておきます。

  東葛を今から旅立つ私たちは、国道の下の長い地下通路を抜け、人生という名の東葛通りを進んでいきます。

  最初は何事もうまくいくとは限りません。

  「いろは」坂のように何度も、「とらとら」が迫ってくるかもしれません。でもその険しい道のりの先には、ギリシャ神話に登場する「ピグマリオン」のように、愛する人と結婚する人もいるでしょう。「クラーク」博士はこう言います。

「少年よ大志をいだけ」

  そんなことを言わずとも東葛生は野心的であり続けるでしょう。

  また、左折する車なんぞ知るかというように、「王道」を進めばよいし、そうでなくとも、自分に聞こえる希望の「音」を信じて進めばよいのです。

  東葛通りも終わりに近づいたところで、私はふと後ろを振り返ります。かすかに残る記憶とカメラロールのみが、私が東葛に存在したことを示すものはなくなってしまうだろう、台湾の高校生の前でWe Are the Worldを熱唱したあの時、大勢で歌えバンバンを歌ったあの瞬間、友人と五・一五事件を再現した昼休みは徐々に色褪せていきます。

  しかし、私の中で「東葛が好きだ」という気持ちは変わらない。

  その時、ふと私は曲がり角にあるラーメン屋を思い出す。

  最後に私は言いたい。

東葛生に誉あれ」

  

卒業生代表

 中小路一真